西陣織は織の帯では最も品格が高く、豪華絢爛(けんらん)な絹織物の代名詞として世界でも知られています。
高価な帯だけでなく時代に合わせた製品も作り出しており、わたしたちにとって身近なものになっていますね。
西陣織の源流は、古墳時代にありました。
紆余曲折を経て、数々の素晴らしい技法が確立されています。
今回は、帯の三大産地で作られる「博多織」「桐生織」と比較して、特徴を解説します。西陣織の歴史をひもとき、その由来にも迫りますよ。
- 西陣織と博多織、桐生織との比較
- 西陣織の由来と歴史
この記事を読めば、西陣織がどのように生まれたのかが理解でき、より一層愛着がわくでしょう。
それでは、ぜひお読みください!
西陣織と「博多織・桐生織」との比較
帯の三大産地として有名なのは「京都の西陣」「福岡の博多」「群馬の桐生」です。
まずは、それぞれの産地で生産されている織物の比較表をご覧ください。
西陣織・博多織・桐生織の比較
西陣織 | 博多織 | 桐生織 | |
特徴 | ・多品種少量生産 ・質感、光沢が高品質 | ・しなやかで丈夫 ・厚み、ハリがあり湿ると音がする | ・軽量で通気性がある ・さまざまな天然繊維を使用 |
織技法 | 12種類 ・綴(つづれ) ・経錦(たてにしき) ・緯錦(ぬきにしき) ・緞子(どんす) ・朱珍(しゅちん) ・紹巴(しょうは) ・風通(ふうつう) ・綟り織(もじりおり) ・本しぼ織(ほんしぼおり) ・ビロード ・絣織(かすりおり) ・紬(つむぎ) | 9種類 ・献上(けんじょう)、変わり献上 ・平博多(ひらはかた) ・間道(かんどう) ・総浮け(そううけ) ・綟り織(もじりおり) ・重ね織(かさねおり) ・絵緯博多(えぬきはかた) ・着尺(きじゃく) ・袴(はかま) | 7種類 ・お召織(おめしおり) ・緯錦織(よこにしきおり・ぬきにしきおり) ・経錦織(たてにしきおり) ・風通織(ふうつうおり) ・浮経織(うきたており) ・経絣紋織(たてかすりもんおり) ・綟り織(もじりおり) |
証紙デザイン | 眼鏡型 | 長方形、円形 | 桐花紋とトンボの組み合わせ |
西陣織の織技法の種類は、上記三つの織物の中で最も多いことがわかります。
これが「西陣織で織れないものはない」と言われるゆえんです。
西陣織は外来の織物を取り入れてきたことで、12の織技法を生み出しました。
12種類の西陣織
- 綴(つづれ)……ジャガードを使わずによこ糸でたて糸を包み込むように織る
- 経錦(たてにしき)……何色かのたて糸を交互に浮き沈みさせながら地や文様を織る
- 緯錦(ぬきにしき)……よこ糸に多色を使い華麗な文様を織る
- 緞子(どんす)……たて糸が一度に4本のよこ糸をおおうかたちで織る
- 朱珍(しゅちん)……繻子(しゅす:縦糸または横糸だけが表に現れる織り方)の地に多色のよこ糸で模様を織る
- 紹巴(しょうは)……強く撚(よ)ったたて糸やよこ糸で織る
- 風通(ふうつう)……表裏に別色の糸を使ってそれぞれ反対の模様が出るように織る
- 綟り織(もじりおり)……となり合うたて糸がからみ合い編み物のように織る
- 本しぼ織(ほんしぼおり)……右撚り・左撚りを交互に織ったあと、ぬるま湯にひたして強くもみしぼを出す
- ビロード……横に針金を織りこんだあと、針金がとおったたて糸を切ったり引き抜いたりして羽毛や輪を作る
- 絣織(かすりおり)……たて糸やよこ糸の一部を防染して一本ずつ交互に織る
- 紬(つむぎ)……真綿を手つむぎした糸を使って手機(てばた)で交互に織る
どれも手のこんだ工程で作られているため、少量生産となっています。
だからこそ、個性豊かな製品が生み出されるのですね。
世界の人々が魅了されるのもわかります。
次の章では、西陣織がどのようにして生まれたか、由来や歴史的背景を解説していきますね。
西陣織とは?名前の由来と歴史
西陣織の起源は、4世紀に渡来人が山背国(やましろのくに)に織物の技術を伝えたことからはじまっています。
はるか昔の古墳時代から織物の歴史があったとは、驚きですよね。
「西陣織」という名称は、応仁の乱のあとにつけられました。
西陣織には、それぞれの時代にほんろうされた歴史があります。
その歴史を、はじまりから現在まで年代別に大まかにまとめました。
西陣織の歴史
・4世紀に秦(はた)の一族が渡来し、山背国(やましろのくに)に織技術を伝承
・大化の改新により織部司(おりべのつかさ:宮廷の織物を管理する役所)が誕生
・律令政治崩壊で官営の織物工場が衰退
・織職人たちが織物業を運営
・鎌倉幕府の政策で織部司が廃止
・「大舎人の綾(おおとねりのあや:大舎人町で生産される綾織物)」などの織物が流通
・応仁の乱の後、織職人たちが「西陣織」名称の由来となる西陣跡地に戻り、織物業が復活
・明(みん)からの技術を導入し、西陣織の基礎となる先染めの紋織(もんおり)を発案
・幕府が能楽を式楽(しきがく:貴族や武家などの儀式に用いられる芸能)と定め、能装束が舞台衣装として定着
・飢饉による倹約令(けんやくれい)などで痛手を受け苦難
・織職人をフランスに留学させ、ジャガード織の技術を導入し近代化を推進
・高級な絹織物の産地として世界に浸透
・新しい技術やデザインをとりいれ、さまざまなジャンルで展開
時代と共につちかわれてきた技術が現代に引き継がれているのは、感慨深いものがありますね。
ここからは、「西陣織」の名称がつけられた応仁の乱以後のあゆみを、簡単に解説していきます。
応仁の乱期
そもそも京都は、平安京遷都の前からすでに織物業がさかんでした。
しかし、室町時代に起きた応仁の乱で京都が主戦場になり、織職人たちは地方に避難します。
この戦いにより、文化の中心であった京都の織物も壊滅的な打撃を受けてしまいます。
京都から逃れた織職人たちのほとんどは、商業港町の堺に避難しました。
応仁の乱によって、貿易船が明(みん:のちの中国)から堺の港に帰着するようになり、これをきっかけに堺は貿易の一大拠点として栄えていきます。
明からの輸入品は、銅貨や書物、美術品のほかめずらしい織物類もありました。
渡来した織物は、綸子(りんず)、紗綾(さや)、縮緬(ちりめん)、繻珍(しゅちん)、繻子(しゅす)などです。
この堺の地で織職人たちは渡来の生糸を得て、のちの西陣織の発展につながる新技術を習得するのです。
応仁の乱後
約11年におよぶ戦いが終わると、織職人たちは京都に戻ります。
そして、西軍・東軍の元陣地にそれぞれ組合を構えて、織物業を再開しました。
西軍の元陣地……大舎人座(おおとねりざ)
東軍の元陣地……練貫座(ねりぬきざ)
このふたつの組合が、織物業の主導権をめぐって対立することになります。
大舎人座が高級織物や先進技術を取り込み、将軍家直属の御用に指定されるなど保護を受けるようになると、練貫座は衰退しやがて消滅しました。
「西陣織」の名称は、大舎人座がある西陣からつけられたものです。
その後も外来織物の技術を取り入れるなど、新しい技法が生み出されていきます。
避難先が貿易港である堺でなかったら、西陣織は違ったものになっていたかもしれませんね。
江戸時代の西陣織
江戸時代になると、西陣織の機業地は160余町、織機数は7,000余機と拡大します。
1657年の明暦の大火で江戸が大きな被害をこうむると、織物の需要は西陣に集中し、さらに活気づきました。
しかし、幕府の保護を受けていても、道のりは平坦ではありませんでした。
江戸時代に起きた以下のできごとによって、西陣織は苦難の時期をむかえます。
- 1702年の物価高騰などにより、織物売買が不振におちいる
- 1730年、1788年の大火事で大打撃を受ける
- 1841年の大改革で絹織物の製造・使用禁止などが発令される
1702年の物価高騰によって、西陣織の原糸に用いる唐糸が輸入制限されます。
そのうえ、幕府の政策によって地方織業が活発になったことも、織物売買不振の要因になりました。
地方織業の発達で安価な絹織物が流通したため、高価な西陣織の需要が減ってしまったんですね。
さらに、1730年の大火(西陣焼け)で西陣地区の織機が約3,000台以上焼失するなど、火事による被害は西陣織にとって大きな打撃になりました。
また、技術者の引き抜き、大飢饉(ききん)や倹約令(けんやくれい)などでも痛手を受けます。
倹約令で禁止されたおもなもの
- 絹織物の製造と使用
- デザインを凝らした綿織物
- 派手な色糸の使用
手のこんだものの製造や使用が禁止され、質素な木綿が主流になりました。
幕末になると、禁門(きんもん)の変などの動乱で、京都は大火災「どんどん焼け」に見舞われ、窮地に立たされます。
江戸時代は災害だけでなく、さまざまな制約や動乱がありました。
高級織物を扱う西陣織にとって、存亡の危機に見舞われた時代だったのですね。
明治時代以降の西陣織
幕末の動乱で、京都は町の半数以上が焼失する甚大な被害をうけました。
これから復興というときに、都が京都から東京に移されることになります。
1000年以上の間、京都は都であり文化の中心であり続けました。
京都の人々のショックははかりしれず、失望が広がったことでしょう。
失意の中にあっても、西陣織は積極的に海外の先進技術を取り入れ、復活に向けて動き出します。
京都府は織物技術が進歩していたフランスに人材を派遣。
留学先でジャガード織などの洋式ノウハウを取り入れ、さらに技術を改良していきます。
もちろん、明治時代から着物の需要が減り、宮中儀式も伝統的な衣装が少なくなるなどの危機もありました。
しかし職人たちは伝統を守りながら、絹織物の大衆化、織技術の高度化やデザインの洗練など努力を続けていきます。
また、柔軟な発想で、時代にあった幅広いカテゴリの製品を生みだしました。
現在、わたしたちが西陣織の製品を手に取れるのも、職人たちの努力の結晶にほかならないでしょう。
伝統を守りつつ新たな挑戦を続ける文化があるから、西陣織は不動のものになっているのですね。
以下の記事は、西陣織がどのように使われているのかを紹介しています。
遊び心のある西陣織の世界を、ぜひご覧くださいね。
西陣織とは?帯の三大産地の織物比較で簡単にわかる特徴と歴史
西陣織とは、応仁の乱後につけられた京都織物の名称です。
帯の三大産地のひとつである京都府の西陣で生産される織物で、織の帯では最も品格が高いものとして知られています。
それぞれの織物の種類
- 西陣織:12種類
- 博多織:9種類
- 桐生織:7種類
現在の12種類の織技法が生まれるまで、さまざまな背景がありました。
西陣織の源流は古墳時代にさかのぼります。
応仁の乱で織物のほとんどが壊滅的な打撃を受けましたが、堺に避難した織職人の新たな技術習得によって復活しました。
しかし、江戸時代に起きた以下のできごとによって、苦難の道のりを強いられます。
- 物価高騰などによる織物売買不振
- 大火事(西陣焼け、どんどん焼け)
- 飢饉による倹約令
- 幕末の動乱
幾度かの危機にあっても、外来織物の技術を取り入れるなど先人たちの知恵と発想によって乗り越え、進歩してきました。
日本の織物の最高峰に位置している西陣織。
かつては上流階級が身につけるもので、庶民には手が届きにくいものでした。
現代では伝統を維持しつつ、ネクタイや小物など日常的に使える製品も出しており、身近なものになっています。
あなたの家に西陣織で作られたものがあったら、あらためて手にとってみてください。
歴史的背景が見えてくると、西陣織の魅力をより感じられるでしょう。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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